久しぶりにダルマの話題をしています。
ダルマは秩序です。イーシュワラとイコール。
さまざまな側面で
サーマンニャダルマといったり(自分の内側にある良い悪いのセンス)、個人のダルマはスヴァダルマ、国などで決められ、ダルマにそったダルマはヴィシェーシャダルマと言ったりしますが、そこに矛盾があったり、誰か特定の人だけが利益がでたりするものをいうのではないので、要注意ですね。
聖典もそうですが、マンメイド(人が作ったもの)ではなく、イーシュワラメイド(イーシュワラから生まれたもの)なのです。
時々、ダルマを選ぶにあたり、仕事などだとなにがダルマなのかわからないときがあるというかたもいます。なかなかに繊細ですよね。利益を追求しなくてはならないならなおさらです。
良かれと思いしたことが、結果的にダルマではなかった、アダルマだということはあるかもしれません。
だから、きっとそのときの最善を選び、行動し、祈り、ときには利害関係のない相談出来る相手に相談(インドではサニヤシーに相談したりするそう)するとよいですよね。
そして、1度決めたことだからと、状況が変わったりしてもゴリゴリと突き進むと、もしかしたら調和を選んでいないことになるかもしれませんので、熟考したいですね。
また、アルタ、カーマといって安心や喜びを探求すること自体は悪いことではないのですが、お金を得ていく過程でちょっとくらいならよいか、とアダルマ(ダルマに反すること。)をしてしまうことが問題なんですね。
お金そのものに、安心がある訳では無いのに、満たされないからともっともっととなってしまう。これは自分自身に安心を感じられていないからですよね。アルタ、カーマは一時的な喜びに変わりないのですが、それを人々の調和のために役立てたりすることが重要なのかもしれませんね。
わたしとはなにか?の探求が、じつはわたしこそが安心そのものだ、と気づいていける知識なのですね。それがヴェーダンタともいえます。
少しずつでも、理解が深まりますように。