ヨギーニmayuさん モークシャへの道!

ヨガ、セラピー、宇宙、ヒーリング、文章。旅その他つれづれとかいています。

遅すぎる明けましておめでとうございます?!

どんと祭、とったりどんと祭りと言ったり各地で名前は異なりますが 七草の後は鏡開きで徐々に行われていきますね。

今年はなぜか全国各地でとても寒くてどんと祭どころじゃないような気もしますが 準備をしたり(終わった地域もありますね)している風景をちらほら見ます。 コロナ禍もあっていつも楽しみにしていた甘酒もコーヒーなどもこの2年か三年ばかし ありません。寒い中飲むのがとても楽しみなのですがおとなしくしておこうかな。

ホームページを新しくきちんと作りなさいとスワミジ(私のヴェーダーンタの先生です) から言われていますがなかなか着手できていません。 今年はしっかり作ってヴェーダーンタのお勉強やアーサナヨーガのクラスなども充実 して行けたらと思っています。こと、ヴェーダーンタの勉強は螺旋状になっていて 同じ聖典(例えばタットワボーダだったり)を何度も繰り返し学んでいくうちに 理解が深まっていって、自分とリンクしていくことが増えていきます。 イーシュワラを思い浮かべているうちにいつの間にかドーナツが思い浮かんだとしても それはイーシュワラがドーナッツにとって変わったわけではなくて、 私たちはどんなものにもイーシュワラを想うという練習ができていく必要がありますね。 (もちろん私たち一人一人もイーシュワラなのです。) 初めはデーヴァター(神様、ガネーシャとか、サラスワティとかなんでもいいです。 お好きなものを!)を思いそこから練習していってもいいのですが だんだんと実は私とあなたは離れた別のものではないという認識の変化(コグニティブチェンジ)が 起きてくる必要があるのですね。だけど無理矢理起こす、のではなくてやっぱりこれも 学んで、カルマヨーガをして、祈ったり与えたりしていくうちにだんだんとそうなっていくのですね。

これを読んでくださっている方がみなさんどのくらい学ばれているかわからないのですが 私も昔は瞑想したらこうなる!のではないかみたいな変化が起きると思っていました。 だけど認識の変化というのは、起きることが変化することはおまけというか そうではないのですね。例えば相手にもイーシュワラを見ることができるようになると 何かラーガドヴェーシャ(何か背景があって嫌だなぁと思う相手がいたり、そんな出来事があって 好き嫌いで判断してしまう)で見ていたものの見方が、自然と「ああそうか、相手にも 背景があってそういうことをしてしまうのかもね。私にも背景があってそういう見方をしてしまうの だな」と気がつくことによって、自然と変化することなのです。 そうなることで結果的に何か変わるかもしれないし、変わらないかもしれないけれど なんだかどうでもいいかーと思えて客観性のある見方になった時、いつの間にか そのものの見方が変化していくといったような具合です。

聖典を使って学ばないとなかなか理解できないこともあるかもしれませんが、聖典とて 普通の言葉です。(というか勉強しないと難しくて何が書かれているのかわからない場合や きちんと伝統に沿って教わらないと自分の言いたい事を聖典に言わせるという危険なことに なってしまうと言われています)伝統的に学びながら、時に仲間とサットサンガで学んだことを 深めながら、そしてカルマヨーガをしながら、少しずつ気がついたら変化していたという ことがあるかもしれません。 だからモークシャというのも到達するものというわけではないのですね。(便宜上、 タイトルには道、とつけていますけれど 笑)

もしこれからヴェーダーンタを学んでみよう、人生ってなんだろうか? なんか同じ事を繰り返している気がするなぁと思ったりしている人は 何かヒントになるかもしれません。いつでもお問い合わせくださいませ。 アーサナもオンラインを中心に行っています。いつも受けてくださる生徒さんに感謝しています。 継続されていることも素晴らしいなぁといつも感じています(何年目なんだろう?!)

クラスなどのお問い合わせは、mayuchi22@hotmail.comまでです。 (オンラインは極力少人数で行っていますので、初めての方もご安心ください)