「生きる」とは一体なんでしょうか?物理的には朝になると目が覚めて、日々呼吸をしていれば生きることができます。
しかし「人生を生きる」というのはなんでしょうか?違いっていうのはあるのかな?同じような気がする?どうでしょうか?
人生を生きるという時に一番大切なことが「人と関わる」ということなんだそうです。人と関わることなしに人生を生きることはできないのだそうです。寝ている時、は「生きている」けれども熟睡しているという時には人と関わっているわけではないですよね?だから「人生を生きている」わけではないのです。夢を見ている時には、人が登場したりもしますよね。ということは、夢を見ている時には「人生を生きている」と言えるのだそうです。なんだか不思議ですよね。
人と関わること、世の中では人間関係に参ってしまったりトラブルが起きたりして「もうできるだけ人と関わり合わないようにしよう」とおもうひともいるかもしれません。悩んだり苦しんだりして、もうひとりでいいやーだなんて思うかもしれませんが、関わることということが「人生を生きる」ということなんです。
そうなんです。「人生を生きる」というのは反応するということなんですね。たしかに、人と関わるといろいろな反応が起こりますね。「好き」だとか「苦手」だとかいろんな感情が巻き起こります。いいとか悪いとか思う前に脳が反応している、という感じかもしれません。
イーシュワラからみたら完璧なのですが、客観的に物事を見られるかというと、きっと多くの人がなかなかそうはいかず、客観的と主観的、半々に見ている人もいるでしょうし、主観的に見ている人もいるでしょう。過去の記憶だとか体験だとかが主観的に見せている場合もあるかもしれません。
客観的な視点を持つ時に、大切なのはいつも「あなたは変わらない」ということなのです。役割は変わるかもしれません。お母さんだとか娘だとか、お父さんだとか息子だとか。先生になる人もいれば生徒になる場合もあります。だけど、あなた自身は変わりません。
物事を客観的に見るために、まずは自分が「主観的な見方になってしまっているんだ」と気づくこと。そして役割や周りが変化しても自分はまったくかわらないのだと(役割が変わることはあっても)気がつけるかどうかがヒントになると言われています。
わたしも、ヨーガのクラスを教える時は「先生」という役割がありますが、ヴェーダーンタを学んでいる時には「生徒」になります。母親の前にいれば、「娘」という役割がいるし、友人の前だと「友達」という役割になります。けれど、その役割は役割として存在しているんですね。変わらないわたし、のことをアートマーといったりプルシャと言ったりもします。
ヴェーダーンタを勉強すると、実は世の中で言われていることと逆のように感じられるな!と思うことがしばしばあります。
日常では外側のものを得ようとして、外側のうつろいやすいもので判断しようとします。しかし、ヴェーダーンタを勉強し始めると、あれ?逆だったかも、時がつけるようになります。「私がしているんだ!」という自我がなんだか小さくなり「イーシュワラに運ばれているんだ」「選んでいると思っていたけれどそれすらも与えられていたのだ」と気がつけるようになっていきます。これがとても不思議です。
今のインドのモディ首相もスワミダヤーナンダジの生徒さんだったと聞いて驚きました。そして政治のお話でもヴェーダーンタのお話をするのです。
これはすごい!と思いましたね。全ては愛なのです。人との関わりの中で「愛」がなんらかの形で見いだせるといいですね。与えることもそうですし、受け取ることもそうです。どちらも起きていくことだということを時々思い出してみてくださいね。ではでは、また!
⭐️まゆさんのセラピー、ヨーガなど
オンラインでのヨーガや瞑想、そしてカウンセリングやヒーリングなど様々行っています。
オンラインの瞑想は、体が痛くても運動ができなくても取り組めるようにしています。
mayuchi22@hotmail.com
夜のクラスはヨガまるさんのオンラインで行ってもいます。
昼間、土日などは個人のオンラインが中心です。
心穏やかになれるような時間を作っていきます。