ヨギーニmayuさん モークシャへの道!

ヨガ、セラピー、宇宙、ヒーリング、文章。旅その他つれづれとかいています。

祈りとプージャのはなし

わたしの文章はもしかしたらヴェーダーンタを学んでいないと間違った解釈がうまれてしまうかもしれないので、できるだけ自分が読みたいところだけを読まずに全体を見るようにしてくださると嬉しいです。わたしの考え、を書いているわけではなく、学んだ考察、をシェアするようにしています。

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さて。祈る、という行為は、日本でも神社で手を合わせたりご先祖様のお墓参りなどわりかしねづいているので毎日とはいかなくともしているかなと思います。

ヴェーダーンタのセンターなどでは朝早くから毎日!行っていて、いまはインターネットでも参加できますし、たくさんのチャンティングがされたり(それぞれ意味があるものです)、鐘を鳴らしたり、お香を焚いたりとしています。

アーサナヨーガを学ぶ人の多くは、インドに行ったりしないかぎり、プージャにすぐ繋がる場合は少ないかもしれません。そして、プージャを知ってもいまいちピン、とこない。かもしれません。

しかし、お墓参りやお彼岸で祈るのと同じようなものだし、もちろん自分自身がイーシュワラであり神殿なのだから、もしかしたらもう少し身近に感じてもよいものかもしれない。神社にふらりといき手を合わせることと何ら変わりはないのかもしれないなあ、と。

思うのは簡単ですが、なかなか行動は難しい?
月に一度、週に一度からでもよいのかな、と最近は思っています。

クラスの始まりや終わりに唱えるマントラも祈りが込められていますし、朝起きたときに太陽に向かって感謝をするとかそんなスタートもありかもしれません。
ご飯を食べる前にいただきますをする、なんてのも小さな祈りですよね。ご飯の向こう側に作ってくれたひとみんなに感謝をするんですね。

可愛いガネーシャを見つけてそれを飾るところからでもよいのかもですし、サラスワティのポスター、クリシュナ、みんなそれぞれ想いやすいものがあるでしょうからそれでもよいですよね。祭壇、など大それたものがなくともちょっとミニコーナーを作れたらそれも良さそうです。


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調子が良いときには感謝ができるなあ、とか悪いときの方が感謝できるとか人により癖はあるかもしれませんが、アーサナヨーガ以外にもヨーガ全体、生き方に興味が出てきたぞ、という場合には、プージャや祈りについてちょっとでも行動してみて、日常の変化を楽しんでみるのはいかがでしょうか?

体はわたしではないけれど

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はじめてヴェーダンタの勉強を始めた頃、
「体はわたしではない」みたいなことを言われて
ど、どーいうこと?!

と思ったのを記憶しています。
わたしの体、ってのは自然なことかと思っていた。
だけど、たしかに頑張って心臓を動かしたり
わたしの意思で血を送ったりしているわけではないし
足を生やすように赤ちゃんの時にお願いした記憶もない。

ということは、やっぱり体はわたしではない。
だけど、なぜか大人になると体はわたしだと思うし
わたし、がすることがうまくいかないとかいいだす。
これは長年連れ添った家に愛着が沸く感じかな?
心臓を動かしたりしている人はわたしではないので
(脳もわたしはなにもしていない)


やはり全体像がわかるなにかが身体を作ったり
動かしたりしているような感じがする。
なかにいるわたしらしきもの、は意識なんだろう。
意識が見えたり形になっていないといろんなことができないので肉体はあるのだろう。

わたし、がなんとかしたい。だとか
わたしが、わたしが、と(子供の頃、そんなことありませんでしたか?)いう自我はアランカーラといいます。

たぶん、いろんな悩みを抱くのもアハンカーラだとか
自己尊厳がなかなか生まれず起きることもあるのかも。

あなたは実は幸せでした!と言われたら
「えー!つまらない。納得できない」
とアハンカーラはいいだすかもしれない。

感情はなくなるわけではないし、
怒りや悲しみは未消化のものは出てくるので
ウェルカム、と思えるようになるとよいと言われます。

ウェルカム!
といえたらよいですねぇ。

わたし、はからだではない。
不思議だけど、これは入れもの。
アハンカーラは、こんなんじゃないよう!というかもしれませんが、イーシュワラからみたら全部OK。

もちろん自由意思があるから、あれしたりこれしたりしてよいんです。選択できる。
でもそれすらイーシュワラはわかっているんですね。
やー、でかいでかい。

思っているより大きな安心がわたしたちみんなを包み込んでいるという理解が深まりますように。

タイトルを変更しました

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長いこと使っていたブログタイトルもヴェーダーンタの勉強に伴い変えてもよいかなと思うようになりました。

今年は、旅にも行けませんし、ヴェーダーンタの宇宙観を学ぶと、宇宙人という言葉にも違和感がありまして手放してみました。

アルタ、カーマな楽しみや安全から少しずつでもダルマや最終的にはモークシャという自由に近づけたらという意味合いをこめて変えました。
勉強していないと理解しにくいかな?
解脱と訳している本ありますがあれは間違った訳ですね。

アーサナヨーガから少しずつ、プージャ(お祈り)や瞑想など、あるいはカルマヨーガ(日常でおきることでの認識の変化)などを意識していけるようになればなーと思っています。ギータやサンスクリット語についてもたまに書いたりしましょう。サンスクリット語のキーボードはでるかな?

मंग これでヨーガとよみますよ 笑

ではでは。

まゆさんのヨガ、セラピー、カウンセリングのお問い合わせ
mayuchi22@hotmail.com

までです。すこし寒くなり秋がきますね。
たのしみましょう。

連休がおわりひとりギータキャンプ中

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連休は久しぶりにヨーガクラスをすこし多めにできたこともあり、またギータのお勉強の復習を兼ねてタットワボーダを見直したり、スワミジのビデオをみたりしてあっという間に過ぎていました。
テレワークの方や学生さんの気持ちが理解できるくらい膨大な量です。

しかし、知る喜びというのは素晴らしいものです。

ヴェーダーンタの結論は「わたしこそがイーシュワラです。神です」ということなのだけれど、私たちは人間で自意識があるがゆえになかなかそうは思えません。

(神という言葉ですら、自分がイメージするものを超えられないというか!様々な哲学の源流であるけれど、ニュースなどの影響もあり、知らない人よく学んでいないときはあまりいいイメージとは言えなくなっている場合すらありますよね!)

モークシャというのは、自意識からの解放といえますが、
モークシャを目指す、なんて人は本当に稀なことであり、モークシャを目指そうとした時点で既に人生の成功でもあるのだそう。

おお!なんだかそれは嬉しいではありませんか。

サンスクリット語は、無理に訳そうとすると、背景が理解されず、うまく全体が伝わらないときがあります。
だからほんとうはその言葉は言葉のままで理解するのが良いのかもしれません。

繰り返し伝えられる、私たちが目の前に見えていることはほんの一部であって、実は目に見えない全体もイーシュワラが作っているのだなあという発見がありますね。

イーシュワラ・プラニダーラとは、聖典を学ぶということですが、いまいちなかなかぴんときていなかったのです。
しかし、10年以上たち、ようやく大事なことなのかあ、と
もちろんアーサナクラスではまだこのお話をする機会はあまりないのですが、知ることで自分自身に寛げるようになると、知らずに生徒さんにも伝わるものかなーなどと思っています。


*まゆさんのヨガ、セラピー
オンラインでも、お外でも、プライベートでもゆったり行っています。
mayuchi22@hotmail.com
まで。いつでもお気軽に。
よろしくお願い申し上げます。

火曜日22日の14時から 体が硬くてもできるリラックスヨーガします

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ameblo.jp


連休中いかがお過ごしですか?だらだらしてます?!
もし都内にお住まいで、ゴロゴロしていたり運動不足だなーと感じる人がいたら是非いらしてください。

高円寺のよがまるスタジオさんで22日の火曜日 14時から15時15分
特別クラスを開催します。
「体が硬くてもできるリラックスヨーガと瞑想」です。

先ほどのブログのクラス名から飛ぶとクービックで予約できます。
体験は1500円だったかな?

定員は4名なのでノー蜜で安心です。
よかったら遊びに来てください。予約制なので是非お申し込みください。

coubic.com
ここから入っても予約できますよー!

サットサンガの重要性

ヴェーダーンタの学びは続いています。もちろん、これは8回コースでおしまい、みたいなものではなくひろーいひろーい宇宙観なので、ずっとずっと続くものです。

スワミダヤーナンダジのパブリックトークのビデオのテキストを見ながら、思うことをみんなで話し合うのですが、ヨーガでもひとつの場に集まって自分自身のことや今気になっていること、弱い部分や悲しみ苦しみなどを話し合うことをサットサンガといいます。

サットとは「真理」だったり「純粋なもの」という意味で、サンガは「集まり」「同席する」といった意味があります。
もちろん、少し難しい内容の時もありますし、サンスクリット語がいっぱい並んでいてわからないなぁと頭を悩ませてしまったこともありますが、ある日ふと!気づいたのです。

ああ、こうして自分の弱いところを話し、ヴェーターンタの宇宙観と照らし合わせたり、
イーシュワラと照らし合わせてみることで「なんて守られているんだ!」そしてそれは自分だけにとどまらずすべての人が守られているということに気がつくのです。

はじめは「自分ができないと思われるのは悲しい」ですとか「自分だけが理解していないのかな」「あんなに理解できている人がいるのに」なんてヨーガにもかかわらず比べてしまったりもします。しかし、そんなこともなくてはじめたばかりだったら誰でもがよくわからないし、理解不能!と思っていたり、そしてそれを人のせいにしたり、環境のせいにしようとしたりして、そしてはじめて「あ!これって癖だったな」と気がついたり。

サムサーラのなかで、じたばたとしているのをイーシュワラは実は微笑んで見てくれているようなそんな感覚が芽生えます。そして、なによりお話を聞いてくださる仲間がいるということ、心の苦しみを共有できるということに感謝の気持ちが芽生えたりもします。
伝統的な方法に則って学ぶということは、質問できる人(スワミジとよばれます)がいるということです。一人では到底読みこなせない聖典の学びが、深まっていくというのが本当に感動するという感じです。

ヨーガの八史則の中でも、聖典を読む(スワディアーヤ)という項目があるのですが
ずっとずっと聖典を読み続けなければならないのかな?すごく難しくて全部はよくわからないのに…」と思っていましたが、これは先生と一緒に読みそして仲間と一緒に理解を深めていくことなのだということにも気づきました。そしてそれはとても楽しいことだとも気が付き始めました。

聖典の言葉はとても奥が深いので、インドの文化などが背景にあることもありますし、西洋の人がその文化をわからずに訳したところから誤解が生まれた部分もあるなど、どうりでちょっとだけクラスで学んでも、一人で本を読んでもなかなか理解ができるようにならないはずです。

生きているといろいろなことがありますので、ただ少し学ぶだけではヴェーターンタの教えが日常では飛んで行ってしまいそうになることもあります。しかし、話し合ったり、ときには疑問点をぶつけたりすることで「あーなるほど、ここは誤解だったかな?」「ちょっと読み違えていたかも」ということにも気が付きます。
そこに気がつくことができるのです。もちろん、ヨーガをするために集まることもサットサンガのひとつだそうですし、2020年はリアルに集まるということがあまりコロナでできないのでそんなときにはZOOMなどのオンラインが手助けになります。全国全世界と繋がれて不思議だなとつくづく思っています。

もちろん、すべてのことを人には言えないこともありますよね。悩みや苦しみを言いたいと言ってもいまはあまりいいたくない、とか不特定多数の人には聞かれたくないみたいなこともあります。そんなときにはセラピーをつかってもいいし、カウンセリングを使ってもいいし、なんでもいいのです。
心のモヤモヤを溜めたりそれで自分を攻撃することは自己尊厳が失われないことになってしまうかもしれませんので、タイミングなどがあえばサットサンガなどで出していくこともとても有効な手立てとなると思います。

サットサンガをすると、日常の些細なあれこれがダルマであったりすることにも気が付きますし、そうはいっても葛藤がある人もいます。スワミダヤーナンダジは言います、「問題のない人なんていない」と。本当にそうかもしれません。そのときにヴェーダーンタの宇宙観が理解できているかどうかで随分と視野が変わってくるのだと思います。

個別のカウンセリングなどが多いですが、いつかこちらでもサットサンガしてみましょう。


BHAGAVADGITA HOME-STUDY-COURSEバガヴァッドギーター第1章まで

こちらもホームスタディ用ですが、きちんと伝統に則った勉強をするととても理解が深まります。

⭐️まゆさんのヨガ&セラピー⭐️
オンラインヨーガやパークヨガ、室内でのプライベートや少人数のクラス、瞑想。
呼吸法、なども行っています。
セラピーやカウンセリングも個別なども対応しています。
お気軽にどうぞ。
mayuchi22@hotmail.com にメッセージくださると折り返しご連絡します。

宮迫さんのyou tube 宮迫ですっ!を見ているこのごろ

久しぶりに雑談でもかいてみましょう。

引越しを考えていて(まだ進まない部分もあるのですが)いろいろなものをあげたり捨てたり、メルカリで売ったりなどしています。その中でかねてから感じていた「テレビ見なくなってきたなぁ」という思いと、コロナが起きてからのあまりにもセンセーショナルなテレビ番組をつい、ながらでもつけてしまうことに疑問を感じたりしていて思い切って!ジモティで手放してみることにしました。

もともと部屋のサイズとテレビの大きさもあっていないのもあり、なにかいろいろとあってなくてたくさんはみていなかったのですが、手放してみるとなんとなくテレビを見る時間というのがなくなってヴェーダーンタの勉強をする時間もできて、よかったなぁと感じています。
(大好きなタモリさんを見ることができないのは寂しくもあるのですが、必要なら生であってみたいという願望はまだ残ったままでいつつ)

もともと大がつくほどのテレビっ子でしたし、バラエティ大好きでした。お笑いに癒されてきたし、今も癒されています。人を笑わせるってすごいことだし、トーク一つとってみても、すごい技術!と思ったりします。
なので、ひょんなことから誕生日が同じ(年は違いますが)宮迫さんのyoutubeを息抜きにみることにしました。

【街ブラ】東京タワー近くで生涯No.1の○○○に出会いました

そしたら、面白いし癒されるし、感動すらしてしまいました。50歳にしてゼロになった?と思っていたけれど、youtubeをみると何もゼロになっていません。
すごい技術!話術!リアクション。芸人さんってやっぱりすごいんだな、と思わされました。ニュースなどいろいろあったけれど、わたしたちはどうしても
色眼鏡で物事を見てしまう癖があるから、もちろん本質的には嘘をついてしまったことはいけないこともあったけれど、でも私たちは決して迷惑がかかっていないし(最近の芸能人のスキャンダルなどを見ていてもそう思います)、ただ、おうちにいてネットを見てコメントを書くというのはだれでもできてしまうけれども、本質を見ていない部分もあったかもしれないな。もちろん、芸能人というのはイメージがとても大事なので、イメージというのが何で作られているのかというのは広告やCMなどという場合もあるし、ドラマの影響という場合もあるし、いろいろな原因があるかもしれないけれども、youtubeをみていると「ただ、与えられた役割を一生懸命していた」人なのかなーという気がしてきました。(真面目に書いている)

性格がキツそうにみえていたりする部分は、半分は役割を担うがあまりそう見えていた部分というのもあるのかもなあ、とほんわかした街ブラロケを見ていて
優しい部分しか見えていないと不思議な気持ちになります。

Facebookやブログ、もちろんyoutubeですらわたしたちは一面しか見えていないし、わからない部分もいっぱいありますが、想像で物事をつなげて「こんな人」「こんなことがあったに違いない」というふうにストーリーを作り上げていきます。
良くも悪くもSNSなどがあることで、芸能人との距離が近くなり、感想もかけるし、出来事をひっくり返すことすらできます。
モヤモヤを晴らすこともできるけれど、もしかしたら逆のこともできるかもしれない。と思うと、自分はできるだけ自分の目で見て感じたことを
書いていけたらいいなーと思います。

昔は、テレビの真似をしていると思われていたyoutubeが独自のものになり、感動をおこしたり、ムーブメントを起こしたりもできるし不思議な時代ですね。

それにしても一日一本って撮るのも編集もすごいことです。毎日何かをし続けるってすごいですよね。
わたしも今できる限り毎日ヴェーダーンタの勉強会にZOOMで参加していますが、その1時間ですらけっこう難しい時があります。
もちろん、それがハリを生んでくれることにもなっているのですが!
そう考えると、子供の頃毎日学校に通って、習い事もしていて、テスト勉強をしてバイトをしていたことってすごいですよね(笑)

今日はちょっと雑談でした。勉強ばかりしていてもなんですので、たまには息抜きしながらいきましょう。
それにしても誕生日が同じというだけで、どうして気になってしまうのかな!応援したいなと思っています。

ふりをしてみることから始めよう

ヨーガをしていると「まずは与えてみよう!」とよく言われます。そうはいっても、前澤社長のようにお金配りおじさんになるくらい(おばさん?)
はお金がありあまってもいないし、わたしには何も与えられるものはないような気がするなぁと思いませんか?たいていの場合はそうですよね。

スワミダヤーナンダジのビデオで「まずはふりをしてみることから始めましょう」というような講話がありました。
まずは親切な人のふりをして、できることをする。自分ができることをしてみる。とだんだんその振る舞いが自然になってふさわしい
人になってくるよというお話です。

私は子供がいないのですが、同世代、あるいはもっと若い人でもお子さんがいる人がいて、きっとはじめは親としての振る舞いがよくわからないけれど
だんだん、わかってきたりします。自然とそうなっていく、(なかなかそうならない部分もあるかもしれませんが)というのを友人を見ていても
感じることがあります。
もちろん、そのためには与えられないとわからないことがありますし、いろいろな自己犠牲をしてきたのに、だとか自己受容がまだだと
与えるという言葉に抵抗があるかもしれませんが、もしやれそうならちょっとしてみること、がバクティやプージャー(毎日のお祈り)でもかかわって
くるのかもしれませんね。


ふりをすることから始めよう。ちょっとできそうだなーとおもったらしてみるのもおすすめです。

最近はラーマーヤナなどの聖典を読んだり、マハーバーラタなどの聖典、あるいはアニメをみたりもしています。
聖典にでてくる登場人物は、たいてい私たちの中にもいるものだよ、といわれています。
意地悪な人や悪魔的な人物、逆に聖者もいます。どちらも自分の内側にあるものですよね。
読むことで実は全ては自分の内側にあるんだなと気がつくことで、発見があるという感じがします。
ヨーガでは聖典を読むというのも大事なこととされていますが、日本ではちょっとよくわからないですよね。
少しずつ読んでいくと、人生でつまづいたときにふとしたときに気がつかされることもあるかもしれません。

現代版 ラーマーヤナ物語

ご興味がある方いましたら、読んでみてください。インドに精通した人の解説があるとなお良しです。


現代版マハーバーラタ物語

バガバットギーターもこの一節だと言われています。
いろいろな方が書かれているので、合うものを探してみるのも楽しいですよ。


ではでは。対面やオンラインのヨーガは変わらず行っています。
銀座がけっこういっぱいになっているので、オンラインでの瞑想クラスなどもできたらと思っていますし、ヨーガ哲学のクラスなども
できていけばと思っています。動画も撮りたいですね。セラピーなど含めて、カウンセリングもっと気軽にお話したいなどあれば
mayuchi22@hotmail.com などにお問い合わせください。

ではでは。少しずつ秋を感じるような感じになってきたかな?

人生を生きるとは?

「生きる」とは一体なんでしょうか?物理的には朝になると目が覚めて、日々呼吸をしていれば生きることができます。
しかし「人生を生きる」というのはなんでしょうか?違いっていうのはあるのかな?同じような気がする?どうでしょうか?
人生を生きるという時に一番大切なことが「人と関わる」ということなんだそうです。人と関わることなしに人生を生きることはできないのだそうです。寝ている時、は「生きている」けれども熟睡しているという時には人と関わっているわけではないですよね?だから「人生を生きている」わけではないのです。夢を見ている時には、人が登場したりもしますよね。ということは、夢を見ている時には「人生を生きている」と言えるのだそうです。なんだか不思議ですよね。

人と関わること、世の中では人間関係に参ってしまったりトラブルが起きたりして「もうできるだけ人と関わり合わないようにしよう」とおもうひともいるかもしれません。悩んだり苦しんだりして、もうひとりでいいやーだなんて思うかもしれませんが、関わることということが「人生を生きる」ということなんです。

そうなんです。「人生を生きる」というのは反応するということなんですね。たしかに、人と関わるといろいろな反応が起こりますね。「好き」だとか「苦手」だとかいろんな感情が巻き起こります。いいとか悪いとか思う前に脳が反応している、という感じかもしれません。
イーシュワラからみたら完璧なのですが、客観的に物事を見られるかというと、きっと多くの人がなかなかそうはいかず、客観的と主観的、半々に見ている人もいるでしょうし、主観的に見ている人もいるでしょう。過去の記憶だとか体験だとかが主観的に見せている場合もあるかもしれません。

客観的な視点を持つ時に、大切なのはいつも「あなたは変わらない」ということなのです。役割は変わるかもしれません。お母さんだとか娘だとか、お父さんだとか息子だとか。先生になる人もいれば生徒になる場合もあります。だけど、あなた自身は変わりません。
物事を客観的に見るために、まずは自分が「主観的な見方になってしまっているんだ」と気づくこと。そして役割や周りが変化しても自分はまったくかわらないのだと(役割が変わることはあっても)気がつけるかどうかがヒントになると言われています。

わたしも、ヨーガのクラスを教える時は「先生」という役割がありますが、ヴェーダーンタを学んでいる時には「生徒」になります。母親の前にいれば、「娘」という役割がいるし、友人の前だと「友達」という役割になります。けれど、その役割は役割として存在しているんですね。変わらないわたし、のことをアートマーといったりプルシャと言ったりもします。

ヴェーダーンタを勉強すると、実は世の中で言われていることと逆のように感じられるな!と思うことがしばしばあります。
日常では外側のものを得ようとして、外側のうつろいやすいもので判断しようとします。しかし、ヴェーダーンタを勉強し始めると、あれ?逆だったかも、時がつけるようになります。「私がしているんだ!」という自我がなんだか小さくなり「イーシュワラに運ばれているんだ」「選んでいると思っていたけれどそれすらも与えられていたのだ」と気がつけるようになっていきます。これがとても不思議です。
今のインドのモディ首相もスワミダヤーナンダジの生徒さんだったと聞いて驚きました。そして政治のお話でもヴェーダーンタのお話をするのです。
これはすごい!と思いましたね。全ては愛なのです。人との関わりの中で「愛」がなんらかの形で見いだせるといいですね。与えることもそうですし、受け取ることもそうです。どちらも起きていくことだということを時々思い出してみてくださいね。ではでは、また!


⭐️まゆさんのセラピー、ヨーガなど
オンラインでのヨーガや瞑想、そしてカウンセリングやヒーリングなど様々行っています。
オンラインの瞑想は、体が痛くても運動ができなくても取り組めるようにしています。
mayuchi22@hotmail.com

夜のクラスはヨガまるさんのオンラインで行ってもいます。
昼間、土日などは個人のオンラインが中心です。
心穏やかになれるような時間を作っていきます。

みんな見たいところを見ているし読みたいところを読んでいる

ヨーガのヴェーダーンタの勉強を続けている。授業中、スワミダヤーナンダジの話してくれたことの書き起こしを読みあいながら話し合ったりするのですが、もちろん、人により理解度やイーシュワラについてなどもそれぞれなのはよくわかるのですが、なによりも毎回人それぞれフィーチャーするところが全然違うというか、10人いたら10人の見方や目に止まるところが異なるので、いい意味で「人って見たいところを見ているのだなぁ」という感じがしています。

例えば、10行の文章があったら書き手は10行目がいいたいことだったとして、だけど読み手は3行目に共感するかもしれないし、5行目に共感するかもしれない。それぞれ違うわけです。
(そしてそれも悪いことではないし、いろいろな視点が生まれて良いのだと思うのです)

ヴェーダヴェーダの最後のヴェーダーンタもたくさんのサンスクリット語があるわけなのですが、その用語があるからそうなんだという頭でわかるということではなしに「腑に落ちる」ということは人それぞれのプロセスがあります。(わたしはサンスクリット語をできるだけ少なく説明できるようになれたらと思っていますが)そして、知れば知るほど謙虚にならなければならないのだなあーという感じがしてきます。

学生の頃だとか、20代前半のときは、こういったことを知らない上に怖いもの知らずですから、とっても強気でした。しかし、謙虚な人に触れると「これはすごい!」となるわけです。これは自分を卑下するということではなしに、いろいろな知識を知ることでなんとなく自分の器が深くなるという気がします。

今日は、ラーガ(好き)ドヴェーシャ(嫌い)のお話も出てきました。

無知を落とすことで少しずつ、知恵が身についてきて、わたしたちはエゴではなく「アートマン」であり、すべてはイーシュワラの計らいなんだ、寸分たがわずイーシュワラ=愛で運ばれているんだときづくようになるために繰り返しヴェーダーンタを学んでいるのです。
しかし、このヴェーダーンタにである人というのは、幸運な人だそうで誰でもかれでも出会うわけではないそうです。まだ準備ができていないひとがであってしまうと「こんなの信じられない!」という批判的な気持ちになることすらあるそうですから、タイミングというのもあるかもしれないですね。
(わたしも10数年前はほんとうによくわからなかった!)

また、こちらについても続けて書いていくことにします。暑いには暑い日々ですが、立秋を過ぎて少し夕方以降涼しさがほんの少し顔を出す日も増えましたね。みなさまが生きていることが幸せだと思う日々が増えますように。

まゆさんのセラピー&ヨガ

プライベートセッションやヨガも行っています。オンラインでも行っていますのでどこからでも参加できます。お会いしたことがなくても、文章を読んでいて受けてくださる方もいます。
お気軽になんでもお問い合わせください。パークヨガやその他、なんでも行っています。
mayuchi22@hotmail.com までお気軽にお問い合わせください。
メールをいただければ折り返しご連絡します。

ではでは。